hangul60の日記

2年前に韓国語を独学でスタート。60歳忘れる方が多いけど、めげずに継続するコツをお伝えします。

自己紹介

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春までもう少し



外は冷たい雪です。

本日は、目が開けられないほど痛くなり急遽会社を休んで眼科へ行ってきました。

目の奥が痛い。眼精疲労とのことで目を休めるしかない。

会社を休んで午後から、ゆっくりブログを書こう。

 

自己紹介

1.いろると申します。

家族は、夫と二人暮らし。去年の8月に子猫のいろるをお向かいしました。息子二人はずいぶん前に結婚して独立しています。

 

はるか昔に総合大学工学部を卒業し、子育てしながら食品会社や化粧品会社5社を転々としました。42歳から今の化粧品製造メーカーで働き昨年定年を迎えました。ありがたいことに、定年後もそのまま同じ仕事を続けております。

化粧品メーカーというと華やかなイメージがありますが、理系の私は、研究所での商品開発や薬事、工場で化粧品の分析をしたり評価したりしている間に、いつの間にか化粧品技術者として35年が過ぎました。

 

長男が生まれたとき、産休も育休もありませんでした。主人の母と3人暮らしをしていたので、面倒を見てもらいながら、仕事をつづけました。当時は寿退社が当たりまえ。子供を置いて働くなんてすごく珍しい時代。義母の都合が悪いと、あっちこっちの知人に電話をかけまくり子供を預けて働く日々でしたが、次男が出来たときに、義母から二人の世話は無理と断られました。当時保育園も近くになく、泣く泣く退職し、2年間専業主婦になりました。

 

2.30歳バイトでも働きたい

長男4歳、次男2歳。義母との同居もしんどくなり、外で働きたい気持ちが先立ち、とりあえず新聞の求人広告(当時求人は新聞かちらししかありません。)で隣の駅前にある化粧品商社の研究室で、研究補助の仕事を見つけました。

週3日 時給700円 朝子供たちを幼稚園の園庭に放して、急いで通勤していました。

仕事は、アイライナー(メイベリンだったと思う)の使用テストや、調合された香水の匂い成分の分析。白衣を着たとき、ああこの仕事が続けたかった、天職だと思いながら必死に働きました。たくさんの海外化粧品の評価をしましたが、今思うとのんびりしていたと思う。家へ帰れば家事・子育ては待ったなし。でも若さで乗り越えました。

 

3.35歳大手化粧品会社研究所へ転職

次男が小学校に入学するのを待って転職活動を開始しました。フルタイムで働けるところ。化粧品にこだわってませんでしたが、当時35歳は今より全然若くなく、転職は難しい年でした。何社も受けて大手化粧品会社の研究所へ、初めは契約社員で入社しました。

しかし、そこで待っていたのは、医薬品の世界。当時化粧品会社が医薬品の開発に進出していたのです。ひたすら抗がん剤臨床試験データを取る日々。動物実験もまだ当時はありました。ここでめちゃくちゃ勉強したので、医薬品を開発する・評価する技術を学ぶことが出来ました。まわりは優秀な研究員、私は子育てママのなんちゃって社員。

 

この頃子育ては、中学受験真っ盛り。寝ながらお弁当作ってたっけ。塾の成績に一喜一憂し、子供たちにはずいぶん勉強を強いてました。虐待だったと今でも言われるしまつ。その後二人とも努力の甲斐あって無事志望校へ合格しました。

 

子供を育てるには、良い職場環境でしたし転職は年齢的に遅かったのですが、人間関係で悩み、考えに考えて退職しました。

 

 

4.41歳派遣社員になった。

前職でひたすら機器分析ばからしていたから、新しい技術を身につけたかった。一つの技術で深堀するのが当たり前だった当時、生物系の研究所へ派遣社員として某食品会社へ入りました。41歳で派遣社員。もう社員への道は遠いなと思いながらも新しい仕事は面白く、微生物・培養、滅菌・分析などみっちり1年学び、即戦力になったころ、転職エージェントから連絡がありました。派遣社員は3年で切られてしまうので、一応職務経歴書はアップデートしてました。

 

5.42歳 化粧品メーカーに

新しく工場を立ち上げキャリア採用の人材を多く募集していた時期に、たまたま当たっていたので、これまでの経歴を整理していったら、医薬品・化粧品を総合的に分析するスキルが揃っていました。面接で特に質問されたのは、家族の介護が必要になったときにどうするか。2003年ごろは、まだ介護保険が整備途中で自宅介護が主流です。スキルが助けてくれてなんとか入社することが出来ました。現在の十分の一の規模。研究室・品質管理室に10名しかいなかったです。

 

6. ひたすら走った~60歳 

それから18年。

会社は時流に乗り(インバウンドやらアウトバウンドやら)成長し、アセアンに海外工場が複数出来、顧客数400社、800アイテムの化粧品・医薬部外品を製造する規模になりました。

韓国、タイ、中国とサプライヤーも増え取引が増えるたびに、品質監査や工場の技術指導など50代はあっという間に過ぎました。

 

今も技術指導や顧客対応、工場管理をしています。

理系女の走りで、38年は長かったですが、仕事をやり続けたことで得たものも沢山あります。そもそも化粧品中身もパッケージも奥が深いのです。

 

でもふとこれからどうしよう。まるで定年後のおやじさながらですが、やりたいことも沢山ある。自分で自分の限界を作らなけらば、ブログも続けていけるかな。

ひたすら模索する日々です。